正覚寺縁起成等山 正覚寺の沿革

当山の開山は宗祖日蓮大聖人の直弟子である六老僧 蓮華阿闍梨日持上人でありますが、開山より第11世 中興開山 恵雲院日潤上人に至るまでのおよそ400年間の寺歴記録は残念ながら現存せず、詳細は不祥となっております。
当山でも資料分析に尽力しておりますがそのほとんどが焼失してしまいました。
島田市成等山正覚寺の寺歴に関する書物等にお心当たりのある方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報いただければ幸いに存じます。
以下は残されたわずかな資料から現在確認できる正覚寺の史実をたどります。

まず中興開基は時の代官で当山の檀越であった長谷川藤兵衛氏(華光院正蓮日意幽儀)であり、第11世 中興開山 恵雲院日潤上人は元禄4年(1691年)に示寂(=逝去)とあります。つまり当山はこの時代に何らかの理由により衰えつつあったところを長谷川藤兵衛氏によって再創建され、その再建後の初代住職を務めたのが第11世 恵雲院日潤上人でありました。

その後16世 智光院日珠上人の時代に当山は近衛家永代祈願所と定められます。
これは当時、病に悩む近衛殿が島田宿を通行の際、日珠上人が祈祷により近衛殿の病を快癒させたことが由来となっています。この時に近衛殿から御歌一幅を拝受したともあります。

時が移り宝暦6年(1757年)に17世 官好院日達上人が本堂を建立。

そして明和2年(1765年)には20世 尭存院日情上人が  四士(4体)、二脇士(2体)、二王(2体)、四天(4体)の仏像12体を新たに彫像しました。

また天明8年(1788年)、21世 本儀院日染上人の代に当時島田市の大津通りにあった「七面堂」を当山に移築します。
これが現在の本堂正面向かって左側にある「開運堂」です。移築の際にお堂の名を七面から開運堂と改めました。


        

〔開運堂メモ〕

現在正覚寺境内の本堂左隣に開運堂として隣接しているお堂です。
主にご祈祷はこの開運堂で行います。
堂内には鬼子母神を始め8体の神仏をお祀りしております。


文政3年(1806年)、25世 祐禅院日定上人の代には本堂屋根替修理が行われ、かくして徐々に歴代上人は寺院設備に精進され仏像荘厳等丹誠完備に至りました。

しかしながら文久2年(1862年)、26世 海治院日荅上人の代に庫裡より出火して惜しくも全焼してしまいます。
全焼してしまった本堂は2年後の元治元年(1864年)に古家を以て再建されました。
時を経て大正2年(1913年)には30世 本妙院日尭上人によって本堂と庫裡が新たに建立されます。
この本堂が今も大切に守り継がれている現在の本堂です。

先代である33世 本康院日成上人(石上舜康)によって本堂の屋根、庫裡、山門は改修することで大切に維持され、また新たに庫裡一棟が新築されました。
そして平成7年(1995年) 開山日持上人の七百遠忌を迎え、その報恩事業として現住職である34世 石上良秀上人によって客殿始め、稲荷堂、参道などがお檀家の皆様のご協力の元、伽藍が一新され現在に至っております。